霊魂学カフェテリア Vol. 35 - April 2018

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霊魂学カフェテリア
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April 2018

人間ってほんとは何なの?
私たちの正体って何?
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霊魂学カフェテリアへようこそ!

霊魂学の耳より情報を、
新しい風に乗せて、お届けします!

♪ほんの少しの時間、
ひと休みしていってくださいね♪

【目 次】
(1)ごあいさつ
(2)霊魂学を読もう!
(3)霊魂学 de オフロード
(4)Q&A 聞いてみよう
(5)霊魂学徒の考察
(6)もっと探索-ご案内
(7)あとがき

■■ ごあいさつ

「いにしへの人の心のなさけをば老木の花の梢にぞしる」
- 西行法師

皆さまいかがお過ごしでしょうか。

桜前線を追っかけて、今日もまた旅立つ人がいます。

「日本人と桜」というキーワードを打ち込むと、山ほどの関連記事に当たるのですが、

桜という存在は、今も昔も、日本という国に暮らす人々にとって、特別なもののようです。

心を震わせる桜吹雪、そこには、目に見えない、言葉にもできない、何かがあるのかもしれません。

■■ 霊魂学を読もう! 

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人は何故生まれたのか、人生で一番大切なものは何か。

今何をしなければいけないのか。

霊魂学は、真剣に求める人に、その答えを示します。

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■■ 霊魂学deオフロード 

このコーナーでは、長年霊魂学を学び、霊的トレーニングを実習されているタニグクさんに、霊的なことに関する様々なトピックについてお話して頂いています。

タニグクさん独自のアプローチと見解は、時に霊魂学の枠を飛び越え、オフロードに乗り出す面白さ。今回も、とっておきのお話をお届けします。
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「黙示録的光景」

キリスト教の聖書、特にヨハネの黙示録には、終末時にキリストが再臨する際に起きる様々な破滅的光景が描かれています。

戦争、疫病、飢饉は歴史的に見ても常に起きていることで、これは肉体をまとったが故の不幸であり、特に戦争は人の持つ霊的カルマであるとも言えるのでしょう。

が、天変地異はどうでしょう、物質の世界は常に変動しているので、そうした破滅的光景が起きることは否定できませんが、なぜキリストの再臨と一緒に描かれているのでしょう。

水波霊魂学的立場から考察してみたいと思います。

古事記には、スサノオが母イザナミの国に行きたいと泣き叫び、海河を枯らし追放され、アマテラスに事情を話すため天に参上する時に山川が動き、国土が皆揺れたとの描写があります。

(高天原が闇に覆われた天岩屋戸の場面やヤマタノオロチ、その他の場面も同様に神霊が地上に降りるという出来事を、様々な名前や姿で様々な側面から描いていると個人的に考えています。)

さて、スサノオが地上に降りた神霊であり、キリストと同様の存在であるとすると… やはり古事記でも天変地異と共に描かれているようです。

なぜでしょうか。

仮説ではありますが、以前に「女神の系譜」で書いたように、龍がこの世界を修理固成した存在と関係があるのならば、その最高位である神霊が地上に降り、それに相応しい力が降りるのを霊的な成長・進化に利用することは、霊的生命体として当然のことのはず。

人が霊的に進化し、幽体を脱ぎ捨て霊体の存在になるように、この物質世界を生命が存在できるように維持していた存在が霊的に進化して上の世界へ移ってしまえば、地上に大きな変動がもたらされてしまうのかもしれせん。

今、神伝の法が地上に存在する一方、その霊的生命体として至極当然のことが分からなくなってしまった人類の未来は…

と、人類レベルの大きな話をするまでもなく、世界では一秒に1~2人の人が亡くなっているのが現実なのです。

せめて幽体の健全化をして頂きたいものですね。

そうでないと死後に新たな平安はないのですから。

- by タニグク

■■ 霊魂学Q&A 聞いてみよう!

Q: 現代に卑弥呼を誕生させるにはどうすれば良いか

A: 霊魂学から見ますと、『卑弥呼』の立場で行なうような、古代の儀式こそが霊的に大切な行事だったのです。

それでは、現代に卑弥呼を誕生させるにはどうすれば良いのでしょうか。

その方法は一つです。

誰かが高貴な霊魂から、霊的身体を成長させ強化させ得る技法を学べば良いのです。

それを得て訓練すれば、複数の卑弥呼が誕生し得るのです。

地上の世界には、そんな技法はなかなかありません。

いにしえより、有名な修行法は不老不死が目的だったり、神人合一や悟りが目的で、どれも、霊的身体の強化法ではないからなのです。

もちろん、HP「霊をさぐる PC版」 http://www.interq.or.jp/mercury/w22525/ の監修者(水波一郎師)はそれを得ています。ですから、ご自身の主宰する会の会員には指導なさっています。

ですが、霊的修行の会となりますと、宗教的な会になります。

そのため、現代の人達は警戒感を持たれ、なかなか入会されません。

このままでは、霊的な分野に真の意味での発展はないのです。

HPの監修者の作成した霊的技法は『神伝の法』と呼ばれ、基本的には富士山に力を降ろされる神霊と、その御眷属の方々の協力で為し得た体系です。

ですから、そうした高貴な霊的存在に対して失礼のない方にしか教示できないのです。

となりますと、信仰心の有る方が対象者になりますので、HPで公開することはできないのです。

また、誰かがその次第を流出させても、富士山の神霊と、その御眷属に認められなければ力を生みません。

つまり、会員以外の方には無関係な技法となっております。

同様の事を為されたいというのであれば、他の誰かが頑張って、霊的技法を作成されるしかないのですが、それが難しいのです。

なぜならば、その前に、その人が霊的身体を高級にさせていなければならないからです。

つまり、霊的身体を高級にする為には、霊的技法が必要で、それを得るには、その前に霊的身体が高級な人が存在しなければならず、結局、不可能になってしまうのです。

ではどうすれば良いのでしょうか。

答えは一つです。

何もないところから一歩一歩、努力することです。

最初は古神道や密教、あるいはヨーガの修行でも構いません。そこから始めるのです。

そうした人達の中には、一定以上、少なくとも、一般の人よりも高級な霊的身体を持っている人がいるのです。

そうした修行を必死に行ない、相応の霊的身体を持つようになられ、その時は、高貴な霊的存在に願うしかありません。

そして、その為の体系の作成に協力を求めるしかないのです。

もっとも、質の高い修行を教えてくれる師匠や、団体は概ね宗教団体か宗教的な集団です。

それを避けるのであれば、本などを読んでご自分の力で行をするしかありません。

それには、常に、霊的な危険を考えねばなりませんし、一人で孤独に行ないながら、信念を持続させねばなりません。

仮に困難を越えて、それを為し得たとします。

やがて、何かしら霊感が得られるかもしれません。

ですが、それからが問題なのです。

まず、その人自身の心の奥に隠れていた意識が、高貴な霊魂からのメッセージだと言わんばかりに蘇って来ます。

そして、それが自分の意識なのか他の意識なのかが分かりにくいのです。

最初はまず自分の意識の方が多いのでしょう。

そして、精神の混乱の危機に陥ります。

この時点で、異常者にならないようにしなければなりません。

仮に、それを時間を掛けて乗り切ったとします。

次には、本物の霊魂との交流が始まります。

ですが、まだ真に高級な霊魂との接点は小さいのです。

その為に、そうでもない霊魂からの霊感が一日中、自分の中で響きます。

もはや、仕事はできなくなります。

ですから、暮らしは貧乏になります。

その時点で、子供を育てるのは無理ですから、しばらく結婚は諦めるしかありません。

やがて、階段を上り得たとします。

高級霊魂との接点が増えるようになりました。

そろそろ、霊的身体を強化、成長させるように指導を受ける時期に入りました。

一歩ずつですが、それを為し得たとします。

どれだけ時間が経ったでしょうか、女性であれば、もう子供を生める年齢では有りません。

古来、巫女は皆、独身と言われるのももっともだと思えてしまいます。

男性であれば、まだまだ子供も持ち得るでしょう。

ですが、仕事がありません。

このまま、先に進んで、高級な霊的身体を持ち得たとします。

ですが、それで生きて行けるのでしょうか。

それが悩みになりました。

また、卑弥呼のようになり得ても、宗教にはしたくありません。

富士の神霊からの技法とは違い、宗教色を無くしたいのが目的の一つだったはずです。

ですから、信仰を前提にせずに行なえねばなりません。

ところが、高級な霊魂ほど神霊に対する意識は強いのです。

どうすれば、信仰を外せるのでしょうか。

更には、宗教団体を作らずに、その人はどうやって生活して行けるのでしょうか。

それが問題なのでした。

(続きは下のリンクからどうぞ)

「高貴な霊魂との交流」霊をさぐる(携帯版)より
http://reisagu.blog.fc2.com/blog-entry-308.html

■■ 霊魂学徒の考察

日常の、身近なものや出来事、諸々を、霊魂学徒の視線から考えます。
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「出会いと別れ」

この時期は、学校ならば、入学、卒業、クラス替え。会社などでは、入社、退職、人事異動。

様々な出会いや別れがあります。

卒業や退職も、送る側、送られる側、それぞれに親しい人、お世話になった人と別れるのは寂しいものです。

とは言え、必ずしも永遠の別れという訳では無く、その気になれば、いつか何処かで会う事も不可能ではありません。

また、いろいろ環境が変わっても、その分、良き出会いも有るかも知れません。

さて高級な霊魂との出会いは、どうなのでしょうか?

その昔なら、神社では、ご神体、お寺なら仏像を、霊的なアンテナ・目印として高級な霊魂が降りて来る事が有りました。

そうした場で、高級な霊魂と出会い、高級な力を頂く事も出来ました。

しかしながら、現代は神主や僧侶も含む、多くの人が、無神論、無霊魂論者となっているので、それが難しくなっています。

何故なら、ご神体や仏像などが、霊的なアンテナとして機能しなくなっているからと言えます。

どんなに建物、施設が立派でも、そこに高級な霊魂を呼び得る霊的アンテナが無いに等しければ、その場所に高級な力が降りる、高級な力が満ちる事は決して有りません。

例えば、仏像が国宝などでは無く、どんなに芸術的には駄作で有っても、もし神的達人が、その仏像に高貴な力を入れたとすれば、その上方に向かって一筋の光が伸びて行き、高級な霊魂方が上空から見た時、霊的な目印と成ります。

目印を焦点として、高級な霊魂が力を降ろされたり、または直接、降臨される事も有り得ます。

故に人は、霊的なアンテナを通じてこそ、目には見えずとも、高級な霊魂と対面し、高級な力を吸収する事が可能になるのです。

国宝とか重要文化財とか、そういった事は、まるで関係が有りません。

真に霊的なアンテナとなり得たご神体や仏像の周囲には、高級な力が渦巻きます。

それが無ければ、やはりただの物品と言えるでしょう。

逆に、伝統の継承しか頭に無く、神や仏、霊魂を信じない聖職者が仕えるご神体や仏像では、決して高級な霊魂を引き付ける事は出来ません。

ならば無神論、無霊魂論であっても、人格者であれば良いのかというと、そうでは有りません。

何しろ、目に見えない存在を否定している訳ですから、高級な霊魂を呼べないばかりか、ご神体や仏像に質の低い気が付着して、邪霊を引き付けている事も有ります。

それは言葉の上では、いくら聖地とかパワースポットと呼ばれても、実際には邪霊の住処になった状態と言えます。

もし邪霊の住処となってしまった聖地やパワースポットへ行き、邪霊の力を吸い込んでしまえば、確かに、現世利益は叶う事が有ります。

何故なら、邪霊はこの世の次元に近い存在なので、この世のご利益を叶える事は比較的容易だからと言えます。

但し、それは悪魔に魂を売ったという事なので、魂の長い歴史から見れば大きな不幸を背負う事になります。

きっと死後は、邪霊が満面の笑みを湛え、迎えに来てくれる事でしょう。

それもこれも、全ては人の自由意志と言えます。

しかし、もし仮に高級な霊魂が迎えに来て下さる事があったとしても、生前、神や仏、霊魂を否定していれば、それに気づくどころか、反射的に追い払ってしまうかも知れません。

この世の親と子。先生と生徒。そのような関係なら、多少の事が有っても見捨てられる事はないでしょう。

しかし、あの世の法則は甘くは有りません。

たった一度の否定・拒絶により、高級な霊魂との接点が切れてしまい、永遠の訣別となってしまいます。

無神論や無霊魂論に、良い事は何一つ無い事を、くれぐれも肝に銘じるべきと言えるでしょう。

- UT

■■ もっと探索・リンク・入会ご案内

◇ 水波霊魂学 - 霊を知って人を知る
霊魂学関連HP・ブログ・動画などを一堂に集めたページです!
→ http://kouhou-keizankan.jp/

◆ 水波霊魂学が案内する霊魂研究への旅
→ URL:http://reikonkenkyu.hatenablog.jp

◇ 霊魂学と修行の会・契山館-入会ご案内
→ http://reikon.lar.jp/index.php?nyukai

■■ あ と が き 

長年親しくして頂いている知人の女性は無神論者です。

人は、死ぬと無に帰する存在だが、その人との思い出は、残された人々の心の中に鮮やかに生き続けることができる。そういう意味で、人は死後も生き続けることができる。そう語り、亡き伴侶の写真を見つめるその方は、私がかつて憧れ、今も慕い続けている、素敵な女性です。

私自身は、記憶を辿ってみると、物心ついたころから、人はこの世を去ってもどこかで生きており、無になどならないと確信していたようです。幼い頃に聞いた誰かの言葉なのか教えなのか、それはわからないのですが、その確信が根強かったため、信じる努力をする必要はありませんでした。それどころか、死後の存続を信じない人が理解できない、とまで思っていたのです。

けれども、自分自身が魂の存続を確信するのと同様に、魂の消滅を確信する人がいる。その人から見れば、死後の存続を信じる人が理解できない、ということになるのでしょう。証明がされていない事柄ですから、論争しても平行線をたどるばかり。

そもそも信じるという行為は、最初から白黒はっきりしたものであるとは限らず、ほんの小さなきっかけで、あたかもスイッチが入ったかのように、目の前の光景が変わり、信じられるかも、信じてみようか、信じたい、という気持ちが生まれてくるのかもしれません。

それが目覚めというものならば、私たちにできることは、そのスイッチを人々の手の届くところにそっと置いておく、できるだけたくさん置いておく、そういうことなのかなと考えたりしています。

では今回は、これにて。

あなたの心に、新しい風が吹きますように、と願って。

また次回、お会いしましょう!

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